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十干十二支をマスターするために
- 2018/04/27(金) 21:34:36
今年初めてのブログ更新です。明けましておめでとうございますとでも書くべきでしょうか?
さて、先日の三国志研究会・愛知で「いつか書きたい三国志」の佐藤ひろおさんが干支について解説をして下さいまして、それからつらつらと考えてみたんですが、干支ってちょっと覚えればそれほど難しくないし、役に立つよなと。
なによりテーマはもとより脱線から広がっていく話がめちゃくちゃ面白いのでおすすめですよ。たまに私もしゃべってます。
干支でよく知られているのは壬申の乱とか戊辰戦争とか、甲子園とかじゃないかと思います。ちなみに今年(2018年)は戊戌(つちのえいぬ)です。
まず支は十二支なので説明するまでも無いですよね。今年は戌年ですので年賀状で犬の絵を描いた人も多いはず。
干はあまりなじみが無いかもしれません。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干です。昔は成績の評価を甲乙丙丁で表したそうですが、今では使われなくなりました。焼酎の甲種・乙種くらいでしょうか?そういえば艦これで改二乙とか丁とかあるのもこれです。
暦で使われる干支がどうなっているかというと、十干の甲乙丙丁…と十二支の子丑寅卯辰巳…をそれぞれ順番に組み合わせていきます。
つまり最初はそれぞれ1番目の甲と子で甲子、次はそれぞれの2番目の乙と丑で乙丑となり、それぞれの10番目の辛酉、次は干は1番目に戻り甲、支は11番目の戌となって甲戌となります。これをずーっと続けていくと60番目に10番目の癸と12番目の亥を組み合わせた癸亥となり、次は両方とも1番目に戻って甲子となります。60歳で還暦というのも60歳になると干支が一周して生まれた年と干支が同じになることから来ています。
今ではほとんど意識されませんが、年だけでなく日付にも干支は割り当てられています。『三国志』とか古い歴史書に「4月丙午」とか書いてあるのがこれです。ちなみに2018年4月27日だと己丑です。とはいえ今だと土用の丑の日くらいしか使わないかもしれません。

と、ここまではWikipediaでも書いてあるような話ですが、歴史マニアとしてちょっと違う自分を演出するために干支の順番を覚えたいという方もいらっしゃるでしょう。
干支の法則
①十干と十二支はどちらも偶数なので、奇数の干と偶数の支が組み合わさることはありません。
丙午を「ひのえうま」と呼ぶように十干はきのえ・きのと・ひのえ・ひのと…と呼んだりしますが、木・火・土・金(か)・水と兄(え)・弟(と)の組み合わせになっています。つまり、甲乙は木の兄と弟、丙丁は火の兄と弟というように2つずつのペアになっています。
十二支もこれと対応するように子丑、寅卯、辰巳、午未、申酉、戌亥のペアにすると、ペアの前が十干の兄、後ろが十干の弟と組み合わされるのが分かりやすいかと思います。
②10増えるごとに支は2つ戻ります。
1番目の甲子から10増えると再び干は甲に戻りますが、支は11番目の酉となります。では21番目はどうかといえば干はまた甲で支は9番目の未となります。
つまり、最初の①甲子②乙丑③丙寅④丁卯⑤戊辰⑥己巳⑦庚午⑧辛未⑨壬申⑩癸酉だけ覚えてしまえば10,20,30といった上の桁にあわせて支をずらせば良いことになります。
※これを覚えるのが大変なんですが。
丙午から28年後の干支は何かと考える場合も、43+28=71なので干は甲と分かります。支は28を12で割った余りが4なので、午から4つ後の戌となり、甲戌であることが分かります。

年号と干支の計算
このルールを覚えておくと日本史や東洋史の年号は少し楽になります。
というのも、十干は10年で一周します。つまり、2018年が戊であれば2028年も戊ですし、遙か昔の208年だって戊なのです。
年に限って言えば甲=4、乙=5、丙=6…壬=2、癸=3という関係は変わりませんので、甲=4さえ覚えておけば年の下一桁を見るだけで十干を当てはめることができます。
甲 | 乙 | 丙 | 丁 | 戊 | 己 | 庚 | 辛 | 壬 | 癸 |
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 0 | 1 | 2 | 3 |
そして干支を組み合わせて考える場合の基準は1番目の甲子ですが、最も覚えやすい甲子の年は西暦4年です。干支を知りたい年から4を引いたものを12で割った余りが1であれば丑年、4であれば辰年ということが分かります。2018年であれば、2018-4を12で割ると余りが10なので、戌年に当たることがわかります。
戊辰戦争の年号を正しく知りたければ、12の倍数+4+(辰年の)4の下一桁が戊の年の数である8になれば正解です。すると、12*155+4+4=1868というのが求まるはずです。
同様に壬申の乱であれば申年は8なので、12の倍数+4+8の下一桁が壬の2になれば正解です。したがって、12*55+4+8=672というのが求まります。
また、60年ごとに干支が同じになるので、西暦4年の660年後である664年も干支は甲子です。壬申は甲子から8つ後なので、664+8=672という求め方もできます。
いかがだったでしょうか?
ぱっと見はとても難解に見える干支を少し分かったような気分になっていただければ書いた甲斐があるのですが、とはいえドヤ顔で干支を語ると「キモい奴」という称号を与えられる可能性がぐっと高まりますので、使いどころは慎重に。
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ツイッターで書き流すってもったいなくないですか
- 2017/09/20(水) 23:16:17
若干煽り気味のタイトルなので先に結論を書いとくと、まとまった伝えたいことがある人は同人誌にまとめようよ。必要ならお手伝いするよ。ということが言いたい。
では本編。
この夏は自分史上最高にいろいろ新しいことに挑戦しまして、その中で同人誌を作った方、作ろうとしてる方と話をする機会をいただけました。よくよく考えてみればこれまでそういう機会は皆無に近かった。
話をするとしゃべりながら自分は同人誌についてこんなことを考えてたのかと気づくことが多々あります。ツイッターは考えてから書くので、思考の整理にはなるんですがそれ以上にはなりにくい。話すというのは思考のコアみたいなもっと深いところから言葉を引っ張り出す作業なのかもしれません。
そんな話はともかく、ここ最近の状況として面白いことを知ってる人がツイッターでつぶやいておしまいってもったいないなと思ってます。
もちろんTogetterみたいなのでまとめられてることもありますが、140字×数ツイートで伝わる内容ってどうしても薄くなるし、そもそもツイートって情報が薄くなりがち。
特にホームページやブログが流行らなくなってきたここ最近は思考結果が雲散霧消してしまってることが増えてるんじゃないでしょうか?
ホームページの更新が面倒でブログにしたのに、ブログの更新が面倒くさくなってくる不思議。
その一方で、肌感覚でしかありませんが歴史考証的な歴史の舞台を知るための知識のニーズって以前よりかなり高まっている気がします。このギャップってとてももったいないと思うんです。
手前味噌ですが、楽史舎は長くやってきただけあってそれなりの本が作れるようになったと思います。ありがたいことに、楽史舎みたいな本を作りたいと言っていただけることも増えてきた。
だったら本を作るネタを持ってる人の背中を少し押してみたいと思います。
同人誌を作るには調べる・まとめる・文章を書く・体裁を整える・印刷する・サークル参加する・書店に持ち込むなどなど、いろいろな作業が必要です。それぞれ1から考えるのは大変だし億劫です。
持っておられるネタについて、どうまとめるか、章立てするかなど、自分ならこうするというようなアイデアを伝えることもできますし、サークル参加が面倒であれば楽史舎で扱うこともできます。
とにかく、持ってるものをまとめて吐き出してみませんかという提案です。
こんなことに興味を持ってるのは自分しかいないだろうというようなネタでも、コミケだとなぜか面白がってくださる方が来ます。日食本が評価されるとかコミケしか無いよ。
それに本にまとめることで自身の知識が整理された新たな発見を得ることもあります。いいことずくめでやらないのはもったいない!
急に前のめりなことを書き連ねてどうしたんだと思われそうですが、早く動いてみないとツイッターが廃れてからじゃ遅いよなぁと漠然とした不安感から書いてみました。
そしてもう一つの動機。とにかく面白い本が読みたい。そしてあわよくば歴史ジャンルが盛り上がってほしい。
こんなことを書いてもなかなか難しいとは思いますが、興味を持っていただければありがたいです。
メールでもツイッターでも構いませんので、ご連絡いただければ。
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真田丸から見た日食
- 2016/01/14(木) 21:40:55
いよいよ始まった大河ドラマ「真田丸」ですが、もともと信長の野望は武田家で始める者、かつ映画「清洲会議」にはまった者としては見逃せません。初回もいろいろネタが仕込まれていて、これからも楽しめそうです。
さて、冬コミの新刊として三国志にまつわる日食を調べてみたのですが、「真田丸」に絡めたネタがないものかと戦国時代にまつわる日食も調べてみました。
すると1615年3月19日に下図のようなかなり激しい日食が起きていました。この時といえば大坂冬の陣が終わり、夏の陣(新暦では5月23日から)に向けて真田丸の廃却や掘りの埋め立てが行われていた頃でしょうか。
大坂城からどう見えたかというと、16時45分から徐々に日食が始まり、17時52分には太陽の約9割が隠れてしまいます。そして18時15分に約6割が隠れたまま太陽が沈んでいきます。
ちなみに新潟や会津若松では金環日食が見られたはずです。
おそらく大阪城内でも次こそは!と戦意を高めていたのではないかと思いますが、はたしてこの日食を秀頼公や豊臣恩顧の武将たちはどのような思いで見ていたのでしょうか?
※日食の演算には竹迫忍氏のEmapwinを使用しています。
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立間祥介先生逝去
- 2014/06/03(火) 22:13:55
表題の通り、立間先生が亡くなられたのだそうで、三国志ファンなら誰でも知っているといっても良い方でしょう。
私自身、青い鳥文庫の三国志に物足りなさを感じて次に手にしたのが平凡社から出ていた立間先生訳の三国志演義でした。
緑色の大きくて重い上下巻を図書館から抱えて帰ったものですが、リアル中二の私にとっては初めての分厚い小説であり、大人への入口でもありました。
ちょっとエッチぃ描写もありましたし。
学校から帰ればとにかく続きを読み、孔明すごいなーとか、曹操はなんで負けないんだ!とか一喜一憂していたものです。
そして気がつけば二十余年、いまだに三国志沼から抜け出せないでいます。
そういえば、三国志の原体験である人形劇三国志も立間先生の仕事でした。
三国志というものを全く知らず、ただ馬が走る人形劇としか認識していなかったようではありますが、私は最初から立間先生に手招きされていたようです。
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中国茶の歴史についてまとめてみる
- 2013/11/12(火) 22:18:51
以前に中国で買ってきた中国茶の本を読んでツイートしたことがあって、それなりにまとまっていたのですが、いつツイートしたものか分からずそのままになってました。
このたびtwitter公式で過去ツイートのダウンロードができるようになったようなので、掘り返してみたところ2012年の1月だったようです。
せっかくなのでここで抜き書き。本を読みながらのツイートなので断片的ですがご容赦を。
読む本は『中国古代茶文化研究』 第一章が茶樹起源なんだけど、白亜紀がどうとかジュラ期がどうとか文化と関係ないだろ。
※本は黄仲先氏の著、2010年に中国の科学出版社から出ています。
ググってみると神田の東方書店さんでも取り扱いがあるようです。
雲南において茶祖は神農ではなく諸葛亮。南征の際、桃花江を渡ろうとして将兵が瘴気にあたり、それを現地人が差し出してくれたお茶で治したのだとか。以来、茶樹を孔明樹といい、茶山を孔明山という。また孔明の誕生日である7月23日には茶祖会を行って祀る。
前漢の段階で蜀と湖南地方では茶の栽培が行われていた。なお、蜀の人は茶を葭萌という。
最初期のお茶は薬であり、司馬相如の薬品リストにも登場する。三国時代になると巴や荊の地では茶を摘んで米と一緒に餅にし、これを赤くなるまで炙り、搗き潰して器に入れ、お湯を入れてネギ生姜その他を加えて飲んだ。酔い醒ましになり、また徹夜に効いたらしい。これに似たのが打油茶として現存する。
(2011年の)三国志フェスで再現された擂茶は馬援が遠征した際に将兵が病にかかり、地元民から差し出された。馬援は「此何神物?」と尋ねたとか。地元民曰わく秦代から伝わるもので五味湯というらしい。材料は生麦生米生茶ほか5種。辞書が無いんで訳せない…
材料のもう一つは塩だ。あと一つはやっぱり訳せない。見たことあるのに…
打油茶は茶を油と塩で炒め、油が飛んだら水を加えてさらにゴマやトウモロコシなどを加えたもの。先の三国時代のものと似てる気があまりしないんだけど…
飲茶が初めて登場するのは張載の『登成都楼』という詩。西晋の人なのに本文には漢代とある。三国志ヲタ的には大事なとこなんで間違えんな。
茶を煮るという記述は前漢にある。晋代の『爾雅』にもあるんで晋代にも同様の飲み方というか食べ方をされていたらしい。三国時代の茶で餅を作る記述は『広雅』にある。
蜀の茶が荊楚に伝わったのは『春秋左氏伝』の昭公13年に記載された楚と巴の通婚の時だろうと。
華佗の『食論』にもお茶は体に良いとある。
長沙馬王堆漢墓から飲茶と見られる絵が見つかった。また、副葬品に茶があった。
『呉書』韋曜伝に酒席でお茶を出された記述。これは有名。
西晋の頃、武陵はお茶の一大産地になっていて、最も良いお茶がとれた。 これにて唐より前の話は終わり。唐以降はまた興味が湧けば拾い読みしてみよう。
中国茶って詳しい人がかなりいらっしゃるのになぜかあまり情報がまとまってないような気がします。
だれか本にまとめていただけないもんでしょうか?
(さんがつ)
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鄴の特徴について
- 2012/04/25(水) 21:33:58
鄴は曹操が魏公に封じられた際、都として整備された城です。
この城のあった地は後の世であまり都市化しなかったため、城が遺跡として残っています。
曹操の思想が色濃く反映された城でもありますので鄴という城の特徴をまとめてみました。
1.城のサイズについて
文献には東西7里、南北5里とあり、実測によると東西2.4km、南北1.5kmでした。
これは帝都である洛陽の9里×6里よりは一回り小さく、公という立場であるため礼制に則り帝都より小さくしたものですが、当時の一般的な郡城と比較すると大きなものです。
※城の周囲が36里にも及ぶ宛城のような例外もあります。
(賀業鉅『中国古代城市規画史』より)
2.城内の区割り
漢代の長安・洛陽は城内の多くの面積を宮殿が占め、しかも城内に点在していましたが、鄴ではコンパクトに1ヶ所にまとめられています。
城は建春門と金明門を結ぶ東西の幹線道によって城は南北に区分され、北側を皇帝の居住区と政治活動区、貴人の居住区(戚里)で、南側を経済活動区、一般居住区としています。これは北側を城、南側を郭とする考え方で、秦の咸陽城に似ています。
実際、北側の宮殿と御苑は堅固な堡塁で守られており、苑内には不似合いな武器庫や厩が置かれていました。また、次に述べる銅爵台も王宮の西部を守るためのものです。
3.銅爵台
銅爵台が最も有名ですが、実際には南の金虎台、中央の銅爵台、北の冰井台の三台から成ります。
これは曹操の権威を見せつけるための施設であるとともに城が攻められた際に高所を占めるための軍事的な施設で、立て籠もることができるように兵糧や水などが備蓄されていました。
銅爵台址と伝えられている遺跡は金虎台址ですが、東西70m余、南北122mで高さは10丈(24m)あったと言われています。何も無いところに24mの高さに立ち並ぶ建物というのはかなり迫力があったことでしょう。実際に今でも10m近い高さの土台跡が残っています。
なお、孫の曹叡の代に洛陽を改修すると、洛陽城の西北に金墉城という三台を増築しました。
金墉城に阿斗城という異称があることは先日の記事の通りです。
4.宮殿の名前
漢代の日常的な朝政は前殿で行われていましたが前殿に名前を付ける慣習は無く、鄴で前殿に初めて文昌殿という名前が付けられました。
この文昌というのは天文の文昌星であり、北斗七星の東にある星です。星に上相・次相・貴相という名前が付いていることから分かるように貴臣の星であり、献帝がいる都を天の皇帝の居場所である太極宮に見立て、鄴を文昌星に見立てたと考えられています。
ちなみに曹叡が洛陽の前殿を新たに建設すると太極殿と名付けました。これも上記の見立てを裏付けています。
なお、この太極殿という名前は唐の長安城にも受け継がれます。
5.平安京につながる形
この文昌殿は鄴城の中軸線の上、北寄りに置かれました。これは宮殿を城の中心に置くという周礼で都城の理想型とされた配置に基づいています。
また、城全体に碁盤の目のような道が整備されています。これらの考え方は唐の長安にも継承され、それが平城京・平安京に伝わりました。これらの元になったのが鄴城なのです。
そして最後に宣伝(笑)
じゃあこんな城をどうやって築いたの?という疑問に答えるべく、築城技術にフォーカスした本を夏コミに向けて制作中です。
気になる方は是非お手に取ってみてくださいませ。
(さんがつ)
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阿斗という名前
- 2012/03/23(金) 23:17:57
阿斗といえば三国志好きなら誰でも知っている劉禅の幼名で、馬鹿の代名詞とされています。
そこまで忌み嫌われた名前ならもう誰も使うまい、と思っていたら洛陽に阿斗城があったのを見つけました。
三国志の魏の明帝の代に洛陽の西北部に金墉城を築いたのですが、これが北魏の頃に拡張され、洛陽小城と阿斗城が築かれました。その場所に今でも阿斗坆という地名が残っています。
※本によっては金墉城そのものの異称が阿斗城だとしていますが、よく分かりません。
いったい北魏はどういう理由で阿斗という名前をつけたんでしょう?
「阿」には寄り添うという意味もありますので、斗城に寄りそうものという意味があった可能性は考えられますが、斗城といえば普通は長安を連想します。
あるいは北魏の武人、賀抜岳の字の阿斗泥と何か関係があるんでしょうか?
非常に可能性は薄いのですが、劉禅は蜀が降伏した後、洛陽で余生を過ごしました。もしかしたら本当に劉禅と関係があったりするのかもしれません。
もっとも、劉禅の住まいは洛陽の西北ではなく、東にありました。
逆に、劉禅とまったく関係ないとすると、北魏の頃にはまだ劉禅=馬鹿という認識はあまり無かったor知られていなかったのかもしれませんね。
謎のまま投げっぱなしですが、そのうち何か分かれば追記します。
(さんがつ)
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昔の地図について
- 2012/03/07(水) 19:43:45
地図というのは現代の私たちにとって当たり前のもので、地図が無い生活はありえません。
いや、普段地図なんか持ち歩かないよ、と言われるかもしれませんが、私たちは無意識に地図を記憶しています。
※日本のだいたいの輪郭ならたいてい描けますよね?
では、昔はどうだったのでしょうか?
日本で古い地図と言えば行基図があります。これは北海道を除く日本が描かれた地図ですが、特徴は大まかな日本の輪郭に日本の諸国が配され、平安京から五畿七道の街道が描かれていることです。
この地図はどうやって描かれたのでしょう?行基も伊能忠敬のように各地を測量して回ったのでしょうか?
おそらくそんなことはなく、街道を基準にこの先に進むと近江、美濃、信濃…というように文献に記載された情報を図にまとめたものでしょう。 時代劇では時折それなりの精度で描かれた地図が登場しますが、おそらく昔の地図は魏志倭人伝の「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里…」というような点と点を方角・距離でつなぎ合わせただけのものだったのではないでしょうか?
※ここで方角・距離をちゃんと書いていてさえくれれば不毛な論争が延々と続くこともなかったのですが…… 逆に方角・距離を正しく知ることの難しさを証明しているのかもしれません。
さて、思考実験として、とある都道府県にたどり着いた者が地理を書き記すとどうなるか?というのを書いてみました。いったい何県についての記述かわかるでしょうか?
下に解答を書いていますのでスクロールは控えめで。なお、1里はだいたい4kmとしています。
島伝いに海を進むと山が見える。山の直下から舟で陸伝いに5里進むとAに着く。逆に陸路を東に2里歩くとB、さらに北へ7里歩くとC、Cから舟で陸伝いに5里進むとD、Dから北に5里歩き、そこから川を下るとE、Eから東に2里歩くとF、Fから海沿いを北に3里歩けばG、県境の町である。
Cから海の向こうに島がある。さらに舟で2里進むとHである。陸路を南に3里歩くとIがあり、さらに西に3里歩くと再び海に出て、Jにたどり着く。ここから先は他県になるが、他県に行くには道は険しく海岸線も入り組んでいるため、人々はDから陸路で山を越える。
また、H,Iから南は山がちであまり人が住むところではない。
こういった記述が時代が下るにつれて蓄積され、また一里塚のように街道の距離が精度良く把握されたことで次第により詳細な地図が作られていったのだと思います。
人が地図を使うのはどこかに行くための情報が欲しいからです。であれば地形の詳細はさほど重要ではなく、目印がどこにあるか、宿から宿までどれくらいの距離があるかさえ分かれば問題なかったのかもしれませんね。
さて、先ほどの記述、実は鹿児島県について書いてみました。
おそらく琉球から船に乗って奄美諸島伝いにたどり着いた彼が最初に見た山が開聞岳です。
地名はA:枕崎、B:指宿、C:鹿児島、D:霧島(旧:隼人・国分)、E:川内、F:出水、G:水俣、H:垂水、I:鹿屋、J:志布志となっています。下った川は川内川、Cの向かいにある島はもちろん桜島ですね。
(さんがつ)
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龍はいるのかいないのか
- 2012/01/16(月) 19:45:23
遅ればせながら本年もよろしくお願いします。
年末年始は楽史舎がコミケに落ちたので西安で城壁の上を駆けずり回っておりました。
買ってきたお茶の文化史の本が面白かったのですがまとめは後日で。
閑話休題。
昨日Twitterでつぶやいたことですが、日本で豹は虎の雌と考えられていたようです。
虎も豹も日本にはおらず、虎といえば一休さんのとんち話か加藤清正の虎退治でしか馴染みが無い生き物でしたので、仕方の無いことだったのでしょう。
しかし、それくらいリアリティが無い生き物だとすると、龍(鳳凰、麒麟なども)も日本で見ることができず、さりとて絵画や伝説ではよく見る生き物ということで、虎と同じ程度に本当に存在するかもしれない、と考えられていた可能性があるんじゃないでしょうか?
余談ですが、wikipediaによれば龍はかつて実在した!とする説もあるのだそうで、「ワニ学者の青木良輔は、竜の起源は、古代に長江や漢水に実在したワニの一種(マチカネワニ)であり、寒冷化により絶滅した後、伝説化したものだと主張している」とのこと。
確かに干支の中で一つだけ実在しないというのも変な感じはしますが…
いや、日本でも大の大人であれば龍が実在しないことは知っていたのかもしれません。だとすると子供はどうだったのでしょう?
情報源といえば物語かどこかで見る絵画の類しかなかった時代のこと、いろんな動物の一つとして信じきっていた子供もいたのではないでしょうか?
実在しないものをあたかも実在するかのように仕立て上げているといえば、現代にもサンタクロースという格好の実例があります。米軍がわざわざ特設のサンタ位置特定サイトまで立ち上げ、NHKがサンタの出発を報道するなど、全世界が参加しているでっち上げです。
ある意味、サンタが存在しないことに気づくのが大人への階段の第一歩になっているといえなくもありません。同様のことが昔のアジア地域でも広く行われていたのかもしれません。
「お前まだ龍がいるって信じてんのかよ。お子様だなー」みたいな。
妄想を逞しくすれば、龍がいることを否定されて泣いて帰ってきた子供に龍がいることを何とか信じさせようとする町屋衆なんてのも笑い話になりそうです。
「何で龍がいねえと思うんだ。鹿も蛇もみたことあんだろ?あれと似たような生き物じゃねぇか」とか、最後は「お父ちゃん、実は龍の子供を捕まえたことがあんだよ」と言ってタツノオトシゴの剥製とか。
ついでの疑問として、『三国志』などでは吉祥として龍の出現が記録されています。おそらく当時はそれなりのリアリティがあったということでしょう。
だとすると、正史に龍をはじめとした吉祥動物の出現が記録されなくなるのはいつ頃からなのでしょう?
いや、皇帝には周りの役人が一致団結して龍の実在を信じさせていた、とかだったら面白いんですけどね。
伝国のタツノオトシゴの剥製とか。
(さんがつ)
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勝手に付いて消えた地名
- 2011/08/21(日) 20:09:26
夏の『NIFONNO COTOBA』以来、外国人から見た日本という視点にはまってしまい、ここ最近は『ペリー艦隊日本遠征記』などを読んでいます。
そこで面白いものを見つけましたのでご紹介など。
大航海時代以来、西洋の海外進出は目覚しいものがあり、新しい土地を求めて世界の隅々まで駆けずり回りました。
その過程で多数の地図を作り、地名を書き込んでいくわけですが、そこには現地で使われていた地名が書かれていることもあれば彼らが名づけた地名が書かれていることもあります。※喜望峰などが有名ですね。
さて、日本は安土桃山時代に宣教師として西洋人が来たもののそれ以降は鎖国政策を取っており、したがって沿岸部の測量も十分でなく、日本はよく分からない国であり続けました。地形がはっきり分からないというのは国防上重要であり、シーボルトが高橋景保から入手した伊能図を持ち出したのが事件となったのもこのためです。
その後、シーボルトはドイツで伊能図を出版し、日本の地理とあわせて地名も詳しく知られることとなります。しかしながら細かな地名までは分かりません。外国船は日本に近づけないのでどうでもいいことだったのですが…
ここからが本題。シーボルト事件から24年後の1853年、ペリー艦隊が日本に来航します。
その際、ペリーらが持っていた地図はかなり精度があるように見えますが、しかし日本の地形についてやや粗いところも見られます。おそらく伊能図からそれほど進化したものではないのでしょう。当然ですが東京湾内の細かな地名は分かりません。横浜など当時はただの漁村ですからなおさらです。
そこで彼らは目印となるポイントにペリー艦隊の船名など、適当な名前をつけました。
海について横浜湾は横浜湾ですが、根岸湾をミシシッピ湾、長浦湾をポーハタン湾、浦賀沖をサスケハナ湾、久里浜湾をレセプション(応接)湾と名付けました。また、本牧岬を条約岬、旗山崎をルビコン岬、本牧の崖をマンダリン崖、横須賀沖の猿島をペリー島、夏島をウェブスター島と名付けています。
今となっては消え失せてしまった地名ですが、身近なところにこんな異称があるというのも不思議な感じがしませんか?
余談ですがこの際、ペリーらは小笠原諸島も通商の経由地として調査しています。
当時、小笠原諸島には日本人が住んでおらず西洋人ら30人ほどが居住し、イギリス・ロシア・アメリカなどが小笠原の領有権をめぐってもめていたことが記載されています。したがって、小笠原諸島・父島・母島という名称は使われておらず、ボニン諸島・ピール島・ヒルボロー島となっています。
※父島で採れる火山岩をボニナイトというのはこれが由来です。
さらに余談ですが、遠征記には母島を調査した際に描いた地図が残っています。実際の母島と比較するといろいろ違っているところもあり、なかなか面白いものになっています。
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