勝手に付いて消えた地名
- 2011/08/21(日) 20:09:26
夏の『NIFONNO COTOBA』以来、外国人から見た日本という視点にはまってしまい、ここ最近は『ペリー艦隊日本遠征記』などを読んでいます。
そこで面白いものを見つけましたのでご紹介など。
大航海時代以来、西洋の海外進出は目覚しいものがあり、新しい土地を求めて世界の隅々まで駆けずり回りました。
その過程で多数の地図を作り、地名を書き込んでいくわけですが、そこには現地で使われていた地名が書かれていることもあれば彼らが名づけた地名が書かれていることもあります。※喜望峰などが有名ですね。
さて、日本は安土桃山時代に宣教師として西洋人が来たもののそれ以降は鎖国政策を取っており、したがって沿岸部の測量も十分でなく、日本はよく分からない国であり続けました。地形がはっきり分からないというのは国防上重要であり、シーボルトが高橋景保から入手した伊能図を持ち出したのが事件となったのもこのためです。
その後、シーボルトはドイツで伊能図を出版し、日本の地理とあわせて地名も詳しく知られることとなります。しかしながら細かな地名までは分かりません。外国船は日本に近づけないのでどうでもいいことだったのですが…
ここからが本題。シーボルト事件から24年後の1853年、ペリー艦隊が日本に来航します。
その際、ペリーらが持っていた地図はかなり精度があるように見えますが、しかし日本の地形についてやや粗いところも見られます。おそらく伊能図からそれほど進化したものではないのでしょう。当然ですが東京湾内の細かな地名は分かりません。横浜など当時はただの漁村ですからなおさらです。
そこで彼らは目印となるポイントにペリー艦隊の船名など、適当な名前をつけました。
海について横浜湾は横浜湾ですが、根岸湾をミシシッピ湾、長浦湾をポーハタン湾、浦賀沖をサスケハナ湾、久里浜湾をレセプション(応接)湾と名付けました。また、本牧岬を条約岬、旗山崎をルビコン岬、本牧の崖をマンダリン崖、横須賀沖の猿島をペリー島、夏島をウェブスター島と名付けています。
今となっては消え失せてしまった地名ですが、身近なところにこんな異称があるというのも不思議な感じがしませんか?
余談ですがこの際、ペリーらは小笠原諸島も通商の経由地として調査しています。
当時、小笠原諸島には日本人が住んでおらず西洋人ら30人ほどが居住し、イギリス・ロシア・アメリカなどが小笠原の領有権をめぐってもめていたことが記載されています。したがって、小笠原諸島・父島・母島という名称は使われておらず、ボニン諸島・ピール島・ヒルボロー島となっています。
※父島で採れる火山岩をボニナイトというのはこれが由来です。
さらに余談ですが、遠征記には母島を調査した際に描いた地図が残っています。実際の母島と比較するといろいろ違っているところもあり、なかなか面白いものになっています。
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