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昔の地図について
- 2012/03/07(水) 19:43:45
地図というのは現代の私たちにとって当たり前のもので、地図が無い生活はありえません。
いや、普段地図なんか持ち歩かないよ、と言われるかもしれませんが、私たちは無意識に地図を記憶しています。
※日本のだいたいの輪郭ならたいてい描けますよね?
では、昔はどうだったのでしょうか?
日本で古い地図と言えば行基図があります。これは北海道を除く日本が描かれた地図ですが、特徴は大まかな日本の輪郭に日本の諸国が配され、平安京から五畿七道の街道が描かれていることです。
この地図はどうやって描かれたのでしょう?行基も伊能忠敬のように各地を測量して回ったのでしょうか?
おそらくそんなことはなく、街道を基準にこの先に進むと近江、美濃、信濃…というように文献に記載された情報を図にまとめたものでしょう。 時代劇では時折それなりの精度で描かれた地図が登場しますが、おそらく昔の地図は魏志倭人伝の「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里…」というような点と点を方角・距離でつなぎ合わせただけのものだったのではないでしょうか?
※ここで方角・距離をちゃんと書いていてさえくれれば不毛な論争が延々と続くこともなかったのですが…… 逆に方角・距離を正しく知ることの難しさを証明しているのかもしれません。
さて、思考実験として、とある都道府県にたどり着いた者が地理を書き記すとどうなるか?というのを書いてみました。いったい何県についての記述かわかるでしょうか?
下に解答を書いていますのでスクロールは控えめで。なお、1里はだいたい4kmとしています。
島伝いに海を進むと山が見える。山の直下から舟で陸伝いに5里進むとAに着く。逆に陸路を東に2里歩くとB、さらに北へ7里歩くとC、Cから舟で陸伝いに5里進むとD、Dから北に5里歩き、そこから川を下るとE、Eから東に2里歩くとF、Fから海沿いを北に3里歩けばG、県境の町である。
Cから海の向こうに島がある。さらに舟で2里進むとHである。陸路を南に3里歩くとIがあり、さらに西に3里歩くと再び海に出て、Jにたどり着く。ここから先は他県になるが、他県に行くには道は険しく海岸線も入り組んでいるため、人々はDから陸路で山を越える。
また、H,Iから南は山がちであまり人が住むところではない。
こういった記述が時代が下るにつれて蓄積され、また一里塚のように街道の距離が精度良く把握されたことで次第により詳細な地図が作られていったのだと思います。
人が地図を使うのはどこかに行くための情報が欲しいからです。であれば地形の詳細はさほど重要ではなく、目印がどこにあるか、宿から宿までどれくらいの距離があるかさえ分かれば問題なかったのかもしれませんね。
さて、先ほどの記述、実は鹿児島県について書いてみました。
おそらく琉球から船に乗って奄美諸島伝いにたどり着いた彼が最初に見た山が開聞岳です。
地名はA:枕崎、B:指宿、C:鹿児島、D:霧島(旧:隼人・国分)、E:川内、F:出水、G:水俣、H:垂水、I:鹿屋、J:志布志となっています。下った川は川内川、Cの向かいにある島はもちろん桜島ですね。
(さんがつ)
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