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鄴の特徴について
- 2012/04/25(水) 21:33:58
鄴は曹操が魏公に封じられた際、都として整備された城です。
この城のあった地は後の世であまり都市化しなかったため、城が遺跡として残っています。
曹操の思想が色濃く反映された城でもありますので鄴という城の特徴をまとめてみました。
1.城のサイズについて
文献には東西7里、南北5里とあり、実測によると東西2.4km、南北1.5kmでした。
これは帝都である洛陽の9里×6里よりは一回り小さく、公という立場であるため礼制に則り帝都より小さくしたものですが、当時の一般的な郡城と比較すると大きなものです。
※城の周囲が36里にも及ぶ宛城のような例外もあります。
(賀業鉅『中国古代城市規画史』より)
2.城内の区割り
漢代の長安・洛陽は城内の多くの面積を宮殿が占め、しかも城内に点在していましたが、鄴ではコンパクトに1ヶ所にまとめられています。
城は建春門と金明門を結ぶ東西の幹線道によって城は南北に区分され、北側を皇帝の居住区と政治活動区、貴人の居住区(戚里)で、南側を経済活動区、一般居住区としています。これは北側を城、南側を郭とする考え方で、秦の咸陽城に似ています。
実際、北側の宮殿と御苑は堅固な堡塁で守られており、苑内には不似合いな武器庫や厩が置かれていました。また、次に述べる銅爵台も王宮の西部を守るためのものです。
3.銅爵台
銅爵台が最も有名ですが、実際には南の金虎台、中央の銅爵台、北の冰井台の三台から成ります。
これは曹操の権威を見せつけるための施設であるとともに城が攻められた際に高所を占めるための軍事的な施設で、立て籠もることができるように兵糧や水などが備蓄されていました。
銅爵台址と伝えられている遺跡は金虎台址ですが、東西70m余、南北122mで高さは10丈(24m)あったと言われています。何も無いところに24mの高さに立ち並ぶ建物というのはかなり迫力があったことでしょう。実際に今でも10m近い高さの土台跡が残っています。
なお、孫の曹叡の代に洛陽を改修すると、洛陽城の西北に金墉城という三台を増築しました。
金墉城に阿斗城という異称があることは先日の記事の通りです。
4.宮殿の名前
漢代の日常的な朝政は前殿で行われていましたが前殿に名前を付ける慣習は無く、鄴で前殿に初めて文昌殿という名前が付けられました。
この文昌というのは天文の文昌星であり、北斗七星の東にある星です。星に上相・次相・貴相という名前が付いていることから分かるように貴臣の星であり、献帝がいる都を天の皇帝の居場所である太極宮に見立て、鄴を文昌星に見立てたと考えられています。
ちなみに曹叡が洛陽の前殿を新たに建設すると太極殿と名付けました。これも上記の見立てを裏付けています。
なお、この太極殿という名前は唐の長安城にも受け継がれます。
5.平安京につながる形
この文昌殿は鄴城の中軸線の上、北寄りに置かれました。これは宮殿を城の中心に置くという周礼で都城の理想型とされた配置に基づいています。
また、城全体に碁盤の目のような道が整備されています。これらの考え方は唐の長安にも継承され、それが平城京・平安京に伝わりました。これらの元になったのが鄴城なのです。
そして最後に宣伝(笑)
じゃあこんな城をどうやって築いたの?という疑問に答えるべく、築城技術にフォーカスした本を夏コミに向けて制作中です。
気になる方は是非お手に取ってみてくださいませ。
(さんがつ)
2013.6.27追記。 発掘調査によると曹叡が洛陽に増築した金墉城というのは三台ではなく南の1つの台だけだったようです。
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